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街頭演説の熱気の中で感じた、「想像力」の境界線

  • 執筆者の写真: Yosuke Oyama
    Yosuke Oyama
  • 2月2日
  • 読了時間: 2分



最近、街を歩いていると選挙の街頭演説に出くわす機会が増えました。 事業開発の仕事や、秋田県能代市でのアドバイザー活動、そして「山雄」として海外人材の育成・定着を支援する日々。私にとって、政治家の方々が語る「これからの日本の姿」は、決して他人事ではありません。

しかし先日、ある演説を耳にして、言葉にできないほどの強い違和感を覚えました。


「マナー」という物差しの危うさ

その演説では、移民問題をテーマにこんな話がされていました。 「日本人はお店の開店前でも綺麗に整列する。でも、特定の外国人は並ばない。こうしたマナーを守れない人が増えることは、国を崩壊させることにつながる」と。

整列という文化、確かに日本の美徳かもしれません。 でも、それを理由に特定の背景を持つ人々を一括りにし、「排除」の論理に結びつけてしまう。その短絡的な響きに、私はがっかりしてしまったのです。


100歩譲って、その方針を受け入れたとして

仮に、その政治家が掲げる「移民を受け入れない」という方針を、100歩譲って受け入れたとしましょう。 だとしたら、一つ大きな疑問が浮かびます。

「では、海外へ渡る日本人はどうなるのでしょうか?」

私たちは今、グローバルな世界に生きています。日本人が海外に拠点を移し、現地のコミュニティで活動することも珍しくありません。 もし、日本人が海外で「マナーが違う」「文化が相容れない」という理由だけで、同じような扱いを受け、排除されたとしたら……。その時、この演説をしていた方々は、一体何を感じるのでしょうか。


「自分たち」と「それ以外」の境界線

私は、政治的な主義主張を声高に発信したいわけではありません。 ただ、現場で海外の方々と向き合い、共に汗をかき、彼らが日本の地域社会に馴染もうと努力する姿を見ている一人として、その「想像力の欠如」にただただ、違和感を拭えないのです。

マナーや文化の違いは、対話や仕組みで解決できる課題です。 しかし、相手を自分と同じ「人間」として想像できなくなることは、課題ではなく、もっと深い断絶を生んでしまいます。

能代の街づくりを考える時も、新しい事業を興す時も、根底にあるのは「自分とは違う背景を持つ誰か」へのリスペクトだと思っています。

秋晴れの空の下、マイクを通した大きな声が響く街角で。 私は、自分が信じる「開かれた視点」を、改めて大切にしたいと感じた一日でした。

 
 
 

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